大相撲という文化

 雑誌「クロワッサン」で好角家の作家2人が対談ならぬ、相撲を取っているw。 ホッシーノ先生(と勝手に呼んでる)と長嶋有さん。
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 この中で長嶋さんが、大相撲は動詞が複雑すぎてテレビゲームにするのは難しいと言ってて、なるほど、と思った。確かに! 大相撲は非常に単純化されたスポーツ(?)でありながら、実は複雑で動詞で表すとすごく入り組んでいて難しい。相撲はスポーツであり、神事であり、興行であり、、、の前に、相撲という動きそのものがすでに複雑で、簡単に表せないものなのだと改めて知る。

 そうなると、ほんと、今のこの、分かりやすさが重要視されて、良きものとする風潮の中では叩かれやすいの、分かるなぁ。。。

 でも、分かりやすさが重要視される中でまた相撲人気が高まったということも、素晴らしいなぁ。

 私からすると、この、単純化され、分かりやすさが美徳とされ、文化や教養といったものがないがしろにされる中で、大相撲って私たちの手に残った希望、という気がするんだけど。

 様々なものを内包する大相撲という文化を大切にしないと、ほんと、もう、日本にはな~んも残らないぞ!とさえ思う。

 ところで。相撲協会が女人禁制についてコメントを出した。

 あれもまた叩かれてるのをFBなどで目にしたが。。。

 叩いている人たちは「土俵」というものの、こう、なんというか、う~ん、ありがたさみたいなもの、感じないんだなぁと思う。たとえば、神社の前を通るときになんとなくお辞儀してしまう感じや、大きな大きな木を前にすると撫でてみたくなる感じ、ああいう感じを、私は土俵に抱く。

 相撲は神事だから、とか云々の前に、土俵それ自体が、ある意味、神聖に思える。

 土俵は、相撲部屋でも毎場所ごとに、いちいち掘り返して、均して、作り直す。

 すごい大変な作業で2日がかりだ。なのに毎場所やってる。別にそこまでやらなくても、土俵が荒れたら、その都度、表面だけ適当に均せば済むところを、わざわざ掘り返して、作り直す。

 それは、私たち農耕民族が、田畑を耕し、種をまき、実を収穫して、また耕し、という行為に似ている。というか、絶対に通じている。土俵を作る土俵築(どひょうつき)を掘り返しから見せてもらったことがあるけど、それはどう見ても、前に私がやっていた畑の作業とそっくりだった。

 毎場所、土俵をそうして作り、そこに五穀豊穣の祈り→豊かな実りの祈り→豊かな暮らしの祈りが、そこに込められているように思う。

 だから土俵そのものがすでに「祈り」なんじゃないか?と。別に私はスピリチュアル好きな人間ではないが、なんか、だから、土俵の前では謙虚な気持ちになる。

 だから女がどうの男がどうのは、とりあえず置いておいて、えっと。そういう感覚? 祈りみたいの、もちっと、もちっとでいいから感じてほしいなぁ~と思うのであります。はい。

 なんか、腰砕けですがw 

 よろしくおねがいします。。。。はい。

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